ハルノの日々の話

「お題」と詩と日々の話

同居する子、離れて住む子ーそれぞれの介護

高齢の親と同居する子供と離れて暮らす子供

 介護が必要になってくると兄弟姉妹の中で親のそばに入れる子供とそうでない子供がいる。自分は離れて暮らす子供だ。最近母親が年齢ゆえの転倒・骨折などで徐々にサポートが必要になってきた。母のもとには他の兄妹がいるので普通に考えると何も心配はいらないし、現によく世話されていて感謝である。だが時々何かの手伝いに行くとき観察していて思うのは(まあ、”価値観の違い”に尽きるのだが)「それやってたらしんどくない?」と思うこと「逆に、ここは気を遣った方がいいんじゃない?」と思うことがいろいろとある。離れて暮らしている以上「こうしたら?ああしたら?」は絶対こちらから言ってはいけないと思うのだが同居者が疲れてしまいそうなことに関しては早めに言いたくなる。

 

母への声かけ

 母に関する用事はほぼ兄がしてくれているのだが、兄の”優しさ”がもしかしたらなくてもいいところの優しさのような気がする。例えば、先日実家からは車で小一時間かかる病院に行ったとき、背中と腰を痛めていてコルセットを着け車いすでしか動けない母にはしんどい移動だったので車から降りた母に「お疲れさん、よくがんばったね。」と声をかけていた。きっと車中で「痛い~はやく~」とか言ってたんだろう。介助のために電車で駆けつけ、病院の入り口で待っていた私から見ると母はそんな息子に何の反応もしない。そもそもドライな性格で息子に限らず優しい言葉にキュンキュンするタイプでもないし、その表情からはもう「わたしはしんどいんや!はやくさっさと終わらんのか?」ってことしか考えていないのがわかってしまった。兄の方は車を駐車場に停める作業が残っているので車いすの母を私が病院の中に入れしばらく一緒に待っていたが、母は耳も遠く大きな声で話しては周りに迷惑なので何も必要なこと以外話さなかった。

  そのあとも、手続きに時間をとられている間中兄は、やれ「おなかがすいた」だの「なぜ看護師さんは来ないのか?」だの自分の要望をいろいろ主張する母のため一生懸命に走り回っている。そのたびに「おなかすいたん?そうやな~?じゃあ待っててな?」とかなんとか優しい言葉をかけながら。もう120点満点だ。私の方は、あと少し待ってたら入院準備ができて昼食も出ることになってるんだから辛抱したらいいのに。まあでもなんか口に入れたら落ち着くんだろう、と、鞄の中に入れてあったナッツの小袋を母に少し食べさせてあげてしのいでいたのだが兄はおにぎりやら飲み物やらをコンビニで買ってきた。

 そんな素敵な優しい言葉を一生懸命かける兄だが、では母の要望は?というとちょっと違う。耳が遠い母はもう食卓での子供たちとの会話がほぼ聞こえていないそうで、少し前「夕飯食べていてあの子らがなんかしゃべってんねんけど、何の話か私にはなんもわからん。」と寂しそうに言っていた。つまり母は要所要所で素敵な言葉をかけられるより普段のみんなが何を話しているかが聞こえて、それに自分も反応するのが楽しいしそれをしたいのだ。女性はそんなものだ。私と母が似ているのであればものすごく気持ちがわかる。「大変だったね」「えらいね」なんていう言葉をあまり必要としないのだ。ずっと誰にも認められなくても褒められなくても動いてきた。昭和の家を守る女性たちはそんな感じではないだろうか。もちろん、息子が優しくしてくれるのに越したことはないけれど、そのために兄が神経を使いすぎてへとへとにならないかと心配する。しかもそれが母のしてほしい事とは若干ズレていたら。ちょっと切なくなる。

「たぶん、そういうの母に言わなくっても大丈夫だし、響いてないよ?頑張って言ってるんだったらやめてもいいと思うけど」って教えてあげたら楽にならないだろうか?あくまで私の主観。兄のベストを邪魔してもいけないのだろうけど。

派生する小さな問題の見落とし

 もうひとつ気になること。

 しばらく家で母はポータブルトイレを使わなくてはいけなかったのだが、私も一日だけ手伝った日、これを初体験してまあ大変な作業だと思った。介護職の友人と話すと「あれな~なかなかやろ?(苦笑)」とやった者にしかわからない辛さがあるのがわかる。毎日それを黙々としてくれていた兄妹には本当に感謝なのだが、その際、部屋の匂いまでは手が回っていなかった。母自身もだ。

介護職経験者の友人によると、彼女の母親も家の中のトイレとベッド間と介助付きの散歩くらいしか歩けないのだが、そのお母さんは「ポータブルトイレしか使えない体になったら施設に入る」と今から宣言しているそうだ。理由を聞くと「子供にトイレの世話をさせたくない」「自分もトイレの横で寝食したくない」とのこと。それにくらべればうちの母は「これ便利やで~コレのおかげで快適や」とポータブルトイレのことを絶賛し、蓋をしてしまえば椅子になるので「私ここでなんでもすんねん(笑)」とご飯もおやつも食べている。機嫌よくなって入院中に会えなかった友達をLINEで部屋に呼びまくったそうなのだ。私はそれを聞いて「ひぇ~!」と思った。やはり施設や病院は換気や空気清浄がきいているので匂いは家ほど気にならないが、自宅はそうはいかない。春先のまだ窓を開けられない時期だったから来訪者は息をするのが大変だっただろうに。私はひっそり「みなさんすみませーん!!」と心で謝るしかなかった。できればそういう細やかなことに気づいてほしいのだがこれも直接世話をしている者たちには言えない。できれば次回空気清浄機を持って行ってやりたいのだが、問題はちゃんとそれを使うかどうか。そこが怪しいので悩みどころ。

 そんな感じで近くにいる者、遠くにいる者、それぞれの視点のそれぞれの優しさがあるのはいい事だが融合させるのは難しい。先輩の年代の方と話すと「遠くにいる子供の方が気が付くのは”あるある”よ。そういうもん。」と笑っておられた。みんな親のためという目的は同じなのでうまくかみ合うと最強なのだが。少なくとも「たまにしか顔を出さない子供の方は余計なことを絶対言うな」という感じのアドバイスをそこかしこで見るのでそこは自制して協力姿勢を保とうと思う。

 

 同居してくれている兄妹への感謝は忘れず、自分にしかできないことを”こっそり”と適度にやっていく<いい塩梅>を目指すとしよう。

褒めたら伸びるは本当か?

 なんとなくPCを開けてブラウザのトップページのおすすめ記事を見ていたら「就職の面接で良い社員を採用できる質問」みたいな記事が目に留まった。採用する会社側のための記事である。自分にとっては必要性は全くなかったが面白そうなので読んでみてちょっとショックだったこと。

「今までやり遂げたことはどんなことですか?」

これはいい。理解できるし海外でも聞かれることらしい。だけどポジティブな質問はこれ一個でこの後に続くのはこんな感じ。

「これまでどんな失敗をしましたか?」

「周囲の人はどれくらい巻き込みましたか?」

「うまくいかなかったことはありますか?どうすれば良かったですか?」

とネガティブな質問が続く。これを企業側が応募者に訊くと良いメリットは確かにあるのだろうけど正直こんな質問をされる面接はただの人生の反省会にしか見えない。ちなみに、海外の面接で訊かれることの似たような記事を探してみるともちろん短所を長所とセットで答える質問は書かれていたがあとは今後の展望や自分を雇ってくれたらこんな働きができるという提示など実にポジティブ。もちろん、私は面接を体験した人ではないし、この記事にどのくらいの信ぴょう性があるのかわからないけれど、ネットで公表されている以上日本の企業が前者のネガティブ質問を参考にする会社があっても不思議ではない。この面接受けたら私ならげんなりして帰りそう。

謙遜と挫折と反省が向上心を生んできた国民性

自分を褒められない

 さて、では自分の思考は普段どうかというと…

このネガティブな自問自答を日常的にしている<がっつり日本人気質>だし「次はうまくやろう」「あそこが失敗だった」が、その日自分ができたたくさんの良い部分を無視して脳内にどっと流れ込んでくるのでもはや”重症”だと思う。でも、なんならそれで向上心を保っている。他者が褒めてくれても「いやいや、そんなのは普通だ。うれしくもなんともない。」と思うほどなのだが、それだと他の人にも厳しくなってしまうので決していい事ではないと自覚している。

人を褒められない

 自分なり他者なり「ほめたら相手が調子に乗る」と言う理由で安易に褒めないという話を良く聞く。すごくわかる。「今できていることを褒めると、できていなかったところも知らない間に克服できている」と言う話もある。本当か?自分の感覚だけで言うと違うと思う。私に今、誰かに褒められるべきことがあるとしたらそれはここまで自分の中で反省会を繰り返して勉強して工夫して克服なり、努力なりして身に着けたものが多く、ターニングポイントになった出来事や誰かの言葉だって思い出せる。なんとなくまずはポジティブ思考になって気が付いたらそうできていたものなんてない気がする。そうなると、自分の経験から他の人にも「できていることを褒める」より「改善すればもっとよくなる点」を言いがちになる。だってそれで自分は成長できたと思っているから。

 

 一度、夫相手に少しだけ試してみたことがある。”昭和のお父さん”感バリバリの夫は「ちゃんと仕事してお金を家に入れてるから愛があるでしょ?」というタイプ。こちらが体調悪くても快くは用事を手伝ってくれないのだが(よほどこちらが具合悪くても「コレコレをこうやって」と具体的に言う必要があり、やっとそれだけはしてくれるという感じ)「僕は褒められて伸びるタイプだ」と言うので「ものすごくわかりやすく私の方が夫をいたわってほめちぎったら何か変わるのか?」と思い一時そうしてみたのだが、結果はなにも変わらなかった。まあ、私が年単位で試してみたらよかったのだろうけど体調の悪い日も多い私には待てなくて挫折。夫の方は気分よく満足しているが、テレビ・ゲーム・YOUTUBEにしか目が行かない実態は変わることはない。こちらのお願いはこちらが発するまであいかわらず目にも耳にも入っていないのだ。

 主婦仲間で話していると「長い時間かけて夫を育てなくちゃ」という人もいるが奥さんが旦那さんをコントロールするという感覚はどうも気分が乗らない。それに年齢的にもう人生の半分まで来てしまったのでこれから育てるっていうのも違うし。

メンタルヘルスには「褒める」は欠かせない

 褒めると伸びたっていうのを体感してみたい。もう遅い年齢だし、ネガティブ大国日本の昭和人間には最後まで理解できない感覚なのかもしれない。それでも、イメージを膨らませる限りそうやって生きていけたら老後は明るいかわいいおばあちゃんになれそうな気もするので今からでもやってみる。

褒めれる人が元気そうで幸せそうなのは否めない。<伸びる>かどうかもある意味”定規”で、その人が心軽やかに楽しそうに生きるかどうかだけで言えばやっぱり褒めることはいい事なのだと思う。

まずは自分で自分を褒めれる人に。誰かに褒められることに慣れる人に。

こころとあたま

■雑念

 

とても喜ばしいことが起きても なぜかいつも自分を責めている

あの人はすごく楽しそうなのに となりにいる迷惑がっている人のことが見えてしまってずっと戸惑っている

 

晴れた日にも 次の雨の日を心配し

「大好き」と言われても 本音ではないのだろうと真に受けず

それもこれも社交辞令なんでしょ?と適当にあしらっている

 

そんな自分が好きではない

キレイなこころとあたまって何なのだろうね?

 

目はよすぎると細かいゴミまでよく見える

老眼になった高齢の人は部屋のホコリに気づきにくくなる

 

つまり

キレイなこころとあたまとは

鈍感というスペックをもちあわせているということか

 

そのスペックを持ち合わせていないわたしは

今日も曇り空をにらんでいる

 

 

今週のお題「きれいにしたい場所」

回転焼の屋台があの頃はいろんなところにあったのに

回転焼

 

学生時代

わたしの楽しみは通学で使う駅を降りたらすぐにあった

回転焼の屋台

 

文化祭にやけに熱を入れる学校だったから

準備の時期はもう周囲がすっかり真っ暗になってから帰ったものだ

電車を降りて家まであと歩いて30分の帰り道

お供にしたのは幸せの回転焼

 

カスタードが大好きだったけど

たまにあんこ入りも買いたくなった

 

「あんこのを1個」

お兄さんに

紙の袋に入れてもらってハフハフしながらの帰り道

寒くって寂しい道

でも

回転焼があれば楽しい道

 

時々は家族の分も5個買って

 

 

今はもうどこにも見なくなったその屋台

 

いまも冷凍もの

を買ったり

有名店のをショッピングモールで買ったりもするけれど

 

あの帰り道の屋台の回転焼が最強なんだ

あの熱々のあんこが忘れられないんだ

 

いつかまたどこかで巡り合えたら

絶対買うと決めている

わたしの青春の味

 

 

今週のお題「あんこ」

人はそれを「いい季節」と言う

めまいがする

気分がすぐれない

黄砂にやられる

 

人がうきうきと

「良い陽気だね」という頃

私は

「どこがだよ」と嘆いている

 

まだ寒い

肩こりがひどい

なのに防寒着はもう街に合わない

辛いんだよこの時期が

1年で一番辛いんだ

 

イエス・キリストはこの時期に亡くなった

なので私は毎年この体調不良で

「ああ~キリストも苦しみの春だったのね」

と思うことにする

彼は希望のために死んだのだった

だから春は希望の季節

 

 

私にも

好きな春があるにはある

道ばたに咲く小さい花

野菜売り場にならぶえんどう豆

見たことない猫が家のうらを通り過ぎる

命がキラキラする

「いい季節」

 

 

沈丁花の香りがするころまで

あと少し

 

 

今週のお題「小さい春みつけた」

どんなふうに歳をとりたいか?老いのロールモデル

 私は若いころから<ロールモデル>を探すのが好きだった。「あんなふうになりたい」と考え方やライフスタイルにおいてイメージをもったり目標にしたりできる具体的な人物を探すのだ。

芸能人など「見られる」仕事についている人には感心はないし、SNSにも頼らない。メディアや画面に映ってるものなんて作られた一部分でしかないし、あのきらびやかさを作りあげるのにどんな泥臭い努力やネガティブな要素が陰にあるのか知る由もないのだから参考にはならない。なので身近で、プライベートまである程度分かる人、裏表なく本当に素敵な人を探してきた。20代はじめには少し上の26,27のお姉さん世代を、30代になったらあんな感じか…とか、40代でもあんな風にしたら素敵に見えるんだとか。本当に参考になった。

具体的な例を一つ挙げると20代になったばかりの頃、24歳くらいのとても上品でありつつ面白いお姉さんがいた。彼女は育ちもよさそうで真似できない部分の方が多かったのだが一つだけ「これならできる!」と思ったのが自分に話題がむけられた時のひとこと目。

たとえば何か気になることを誰かに相談し、そのあとしばらくして「前に~って言ってたのはどうなったの?」と尋ねられたら

ありがとうございます!あれね~になったんですよ。」と返す。

まず、「自分のことを気にかけてくれて、覚えてくれていてうれしいわ」の「ありがとう」なのである。

シリアスな場面でも同じ。一度私が勘違いで自分がその人に嫌な思いをさせてしまったのかと思ってそのことを謝った時、

ごめんね~そんな風に思わせてしまってたんや。大丈夫。何にも感じてないよ。でもそう思わせちゃったんならこっちも悪かったね。」と返してくれた。

なんて人ができてるんだ!と感心したと同時にこれなら少し気を付ければ自分にもできるとも思ったので以来なるべくそれを真似するように生きてきた。ありがたいロールモデルだ。

 

 さて、自分が50歳になって年上がもういわゆる”高齢者”になってきた。これまでとはわけが違う。高齢者は体力、気力、知力などいろんなものが歪んでくる。昔は素敵な人だったのにと思う人が弱さゆえに残念になっていく。自分の身なりを整えるどころではなくなったり、早く反応できなかったり、会話が難しくなったりするのでどういうところを見るか悩んでしまう。「ああはなりたくない…。」と思うケースが多いので自分もその道をたどるのかと考えるととても切ない。

 最近思ったのはこれから先、目指すべきは<前向きさ>と<品>だ。

 老いるとまずネガティブになる。もともとネガティブ思考な私は本当に要注意で<ケセラセラ(なるようになるさ)精神>をスキルとして今からちょっとずつ身に着けていかなくては。<品>の方はあとから身に付くものではないような気がするのでとりあえず面倒でも身なりを整え丁寧語をきちんと使っていきたい。「存じ上げて」とか「恐縮です」とか使えるのと使えないのとでは大違い。 

 

 前向きな高齢者は見ていてこちらが元気をもらえるほどだ。残念ながら一番身近な女性である母は今は真逆の人。つい最近まではかなり前向きだったのにこの数か月で急激に体も心も弱ってしまったので今は口から出る言葉が天と地ほど違う。似たような年齢でもお元気で前向きな方々は聞いているとセルフコントロールを良くされていると思う。それは食べるもの、我慢するもの、運動などに現れていて、そういえば母はそこらへんが適当で割と自分の思うようにやっていてあまり我慢ができなくなっている。

品があるかどうかもそう。お金があるかどうかではなく、昔のモノでも大事に使い、体型の大きな変化がないように気を付けていればそうそう服を買い替える必要もないはず。結局どちらも<自制>と小さなことにも「これくらいまあいっか」とならないことが大事になってくるのだと思う。

 母のDNAが自分にも流れていると思うとこれは生半可な気持ちではやり遂げられない。ご近所の、知り合いの、チラッと見かけた人でも「良い!」と思ったら真似して行こう。

 

 

高齢の母、正体がばれる

 うちの母は80代。

脳梗塞を2回、脳出血を1回しているもののまだ自分のことは自分でできる状態。さすがに直近の脳出血で半身に麻痺を残しているがまったく動かせないわけではなく、しびれが常にある程度らしい。

そんななか、先月室内で一人でいる時に転倒してしまい二度目の<圧迫骨折>で入院中。先回は背中、今回は腰。日に日に体の動かない部分が増えているのだが、それよりも子供たちが困っているのが母の性格だ。

 母は昔から<健康オタク・自然派オタク>だった。

といっても先立つものがない家庭だったので”なんちゃって”のつくオタク。本当に余分なお金が捻出できなかったときは健康食品などは買えず、自分たち子供には母の関心事はあまりわからなかったのだが、いつからか本棚に「薬を飲まずに治せ!」みたいな本が並ぶようになり、クエン酸やら<卵油>(そういえば最近みない)など買っては自分だけでなく離れて暮らす私への手紙や荷物にも入れてくるようになった。そしてついに母が自分で年金がもらえるようになるとそれに拍車がかかる。

 ちょうど2年前くらい脳出血での入院先に「コレコレのサプリを持ってきておいてほしい。あれがないと便秘になる」と母に言われ、困った妹が相談してきたことで判明したのだが、1本7千円も8千円もする謎の健康食品を毎月買っていて、さすがにそれを続けられては困ると問題視するようになった。最近、自分が「現在は何を飲んでいるのか?」と確認したところ「もう今はこれだけ」と別のもう少し手頃なものに変わっていたが今回の入院中、実家を訪ねて同居している他の兄妹に聞くと本当は1種類ではなかったのだ。兄が次から次へテーブルの上に出してくる。

買い物自体にも問題があるのだが、私が嫌なのは母が子供に対して”ごまかそう”としているその態度だ。「子供に怒られるから」というのがいろいろなところにあらわれる。母の中ではつじつまが合っているのだろう。内臓の動きが悪く、便秘になる→便秘でトイレに行くと血圧が上がりやすい→また倒れたら迷惑をかけるし、次は最後かもしれない→でも薬はよくない!(どこかから仕入れた情報)とか。ところが母は間食もやめない人なので本当は何かプラスで摂り入れるのではなく、今好んで食べているものを減らしていく方が正解なのでは?と思っている。お菓子にお金を使い、それをフォローするために健康食品を摂る。まさに本末転倒だ。

 

 今回の入院、面会に行くと毎回最後に「さみしい~」と目に涙を浮かべている。ウソ泣きではないのだろうけどもともと母はそんな女性らしいことを一切しない人だ。どこかに「優しくしてほしい」アピールの気持ちが”盛られている”のだろうと察する泣き方だ。ちょっと本気で説教するとぷいっとして「あ~もういい!もういい!血圧上がる!」と自分の高血圧を人質のように使う。せめて冷静にお互いの要望を謙虚に話せる状態でいてほしいがプライドとか負けん気とかこれまで母を支えてきたものが悪い方へ動いている。

 対処方法はわからない。ネットでアドバイスを探しても「まずは会話」とか「ある程度好きにさせる」がほとんど。だけど、相手が聞く耳持たなかったり「子供に指図されたくない」と思っていたら会話どころではないし、出費が関係していたら「好きにさせる」にも限界がある。こっちも面と向かって話すと怒りの気持ちがわいてくるし。

 今、策を練っているのだが私は時々ちょっとした漫画付きの手紙を書き、母はそれを喜んで読むので久しぶりに超大作を書こうかと。でも、笑って終わりでは困るのでいかにポイントをはっきりと描くかはなかなか大変。そうこうしているうちに別の問題が出てきませんように…。

 

 高齢者には<人格の先鋭化>というものが見られるらしい。ガラッと人が変わるのではなくこれまでもあったその人の特徴が判断・忍耐力・知的能力などこれまでコントロールされていたのが抑制されず放たれるイメージのようだ。確かに合点がいく。母の人生は結婚してからはいろいろと苦労が重なった。娘としてその苦労を知っているので優しくしてあげたいが爆発されるのは困惑、である。80代にしてその正体がばれたといった感じだろうか。

(あと、高齢者の不安な気持ちにつけこむ健康食品業界にも腹が立つ。)

 

同居してくれている兄妹には感謝しかない。私にできることをする。